『 草深先生の訃報に接して 』
 印刷紙面からの「文字自動変換エラー」を お詫び致します。   (スマホ対応) 最終更新日 : 2016/06/04   
長妻直樹 66回
 「淡交会報」第75号にて 先生が昨年10月に亡くなられたことを知り、悔恨の情
に沈んでおります。 数年前に同期会の通知があった際、先約を優先したのですが、
あとで ご高齢の草深先生が当日見えられたと知り、長年のご無沙汰をお詫びする
機会を逸したことを悔いたまま今日に至ったものですから。
今も脳裏に浮かぶ 壮年時代の先生の笑顔に向かい、心からご冥福をお祈りいた
します。                       合掌
 先生には「草深語録」満載の授業以外にも、一年生時はクラス担任として、ま
た三年間在籍した文学部では顧問として、種々ご指導いただきました。 半世紀
近くの歳月を経てなお思い出は次々と浮かんで尽きないのですが、ふたつほど
申し述べます。
 ひとつは、当時文学部は両高祭で自作劇を上演しており、日頃は小生意気な文
学論を闘わしている部員達もにわか役者となって、会場の旧江東公会堂のステー
ジに立たねぱなりません。 が、なにぶん小世帯の悲しさ、役者はいても 裏方がい
ない。 事情を察せられた先生は、いやな顔ひとつされず オールマイティのダイレ
クターを買って出られ、リハーサル立ち合いと演出から、大道具・小道具の手配・
製作、上演前のメーク、上演中の照明の指示、と八面六臂のご活躍でした。 指示
されるだけではなく 必要に応じて手も出され、メークに手間取っている私たちに
「むくつけきおのこもこれで舞台に立てるであろう」とおっしゃりながら、あざ
やかな手つきで地主や小作人の顔を仕上げられたのには唖然としたものです。
 それから数年後に、国語科の高尾政夫先生がご出勤途中に倒れられ、急逝され
ました。
 それを伝え聞いた私は(もう大学生でしたが、高尾先生の授業が好きだった
ものですから)ショックを受け、翌年の草深先生への年賀状で 少し長めに思いを
綴りました。 そのご返事の賀状には先生のお気持ちが縷々述べられるのかなと
思っていましたら、
「高尾先生亡くなる ただ哀し 友の訃の大きくてあり日記果つ」 と
だけあって、ううむ、そう来るのか、と ハガキを持ったまま しばし固まって
しまいました。 そのときから、喜怒哀楽を 句歌に詠むことができるとは
素晴らしいことだなと思いつつ、忙しさにかまけて 実作に踏み出すことのない
まま今日に至りました。 「今度は 君が詠みたまえ」とあの甲高いお声が聞こえ
そうですが、私には駄文を草することしかできません。 どなたか他の教え子の
方の追悼歌・句が詠まれんことを期待します。
 さて、もはや先生の聲咳に接することはかなわぬ今、先生在りし日のお姿をしのぶ
よすがとして、手もとにある文章に目を通してみました。
「老虚の辞」は 私たち第66回卒業生へのはなむけとして「両高新聞」(昭和44年
3月17日付) に寄せられたもの、 もうひとつは 大学に移られてご専門の能楽の研究
を深められ、 古希を過ぎての批評文 (「新・能楽ジャーナル」復刊第1号 平成12年
9月号)です。 あの懐かしき毒舌口調ではないものの、いずれの文もその意外に
熱い語り口からは 先生のお声や面影が はっきりよみがえってくる気がします。
ご一読いただければ幸いです。
        ( 両文章は 上述の リンク表示 部分から ご参照 頂けます)