【 淡交会 会報81号 インタビュー 転載記事 】          最終更新日: 2019/01/07   

表紙インタビュー
難病から立ち直って彫刻家となり、4年前から
和泉短期大学学長を務める
佐 藤 守 男 さ ん ( 回)
72
―― 両国高校 3年の時、大
病して卒業式に出られなかっ
たそうですね。
入院で卒業式を欠席
「夏休みに休調を崩し、下
痢や腹痛、咳が止まらなく
なり、昼と夜が逆転して夜
眠れなくなったりした。原
因がわからないまま病院を
幾つか変わり、最後にお茶
の水の順天堂大学病院に人
院して、あれこれ検査して
いるうち3〜4月が過ぎ、
卒業式は欠席するしかなかっ
た。やっと5月になって潰
瘍性大腸炎とわかりました」
―― 根治の難しい病気です
か。
「当時、国が難病に指定し
たばかりで、治療薬がなく、
ホルモン剤で進行を止める
しかなかった。それでも順
調に回復し、いったんは退
院したが、町工場を経営し
ていた父が8月に急死し、
そのショックで再人院。病
状は悪化の一途をたどり、
 時間点滴を付けて数か月
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後には寝たきりの状態になっ
た。それで内科的治療を諦
めて東京女子医大に転院し、
外科の担当に変わった。女
子医大では『もう手遅れか
も知れない』と言われたら
しい」
―― 絶望的な状況でしたね。
「前途に希望がなく、人間
とは、人生とは…なんて
勝手に考えていた。とにか
く歩けるようになりたいの
で、母に『手術したい』と
言った。先生は『手術例も
ないし、難しいからやらな
い方がいい』と止めたが、
『どうしても』とお願いし
て手術しました」
―― 手術が成功した?
友の手紙 生きる勇気くれた
「運良く普通に歩けるまで
に回復した。そんな時、北
大恵迪寮にいた両国同期生
から手紙をもらった。1年
の時同じクラスだった五十
嵐一夫君で、『つらくなっ
たら電話して来いよ』と書
いてあった。 嬉しかった。
生きる勇気をくれました」
――それで北海道へ?
「退院後、何をしたら良い
か分からなかったので、彼
  佐藤さん制作の乾漆彫刻作品を保管する美術準備室で
       なら自分の
       ことを受け
       入れてくれ
       るんじゃな
いかと思い、家を出て札幌
へ。アルバイトしながらぶ
らぶらしていたところ、見
かねた彼が『学校の先生だっ
たら(年齢的に)今からで
も成れるかもしれない』と
勧めてくれた」
――そして北海道教育大学
に進むわけですね。


「 歳の時で、同期生より
6〜7年遅れです。岩見沢
分校の小学校教貝餐成課程
に入り、副免として中学・
高校の教員免許のためのゼ
ミで美術を選択した。それ
が彫刻との出会いです」
―― 彫刻は初めて?
「高校の部活はバレーボー
ル部で、芸術選択は音楽。
美術は取らず、彫刻はやっ
たことがなかった。大学の
先生の人柄に魅力を感じ、
彫刻に興味を持った。その
先生と一緒に時間を過ごす
ことが多く、美的感覚を吸
収していきました」
―― 彫刻に魅了された?
「多分、彫刻じゃなくても
良かったんだと思います。
没頭できるものが欲しかっ
たのです。岩見沢は炭鉱の
町で遊ぶところがなく、大
学で粘土を触ってるしかな
かった」
―― 大学卒業後、愛知県立
芸術大学大学院に進んで彫
刻に磨きをかけた?
「大学時代、東京に帰省し
たら必ず上野に立ち寄って
公募展や展覧会を見た。
『いいな』と思う彫刻の作
 歳でやっと大学へ
25 25
者名を覚えていて、大学の
先生に話したら、なんとそ
の先生の先生だった。東京
芸術大学の千野茂先生で、
紹介されてアトリエに伺う
ようになり、指導を受けた。
そのうち『大学院に行った
方がいい。今の君には東京
の芸大より愛知の芸大の方
が合っている』と言って、
推薦をしてくれました」
―― 大学院はどうでしたか?
「岩見沢では彫刻の先生1
人で1つの価値観しかなかっ
た。愛知芸大の大学院では
彫刻の先生が7〜8人いて、
それぞれ違った価値観を持っ
ていた。カルチャーショッ
クで、あっという間の2年
間でした。そこで乾漆技法
に出会い、堀川恭先生から
彫刻家としての姿勢を学び
ました」
―― 公募展などに出品した
のですか?
 彫刻が国展で新人賞
「大学4年時から公募展に
出品し、大きな作品、小さ
な作品を年に各1回出して
いた。大学院を出た翌年の
1989年に中部国展(愛
知県美術館)新人賞を取り、
92年に全国の国展(東京都
美術館)新人賞を受賞しま
した」
―― 乾漆技法とは?
「興福寺の阿修羅像に代表
される奈良時代の仏像の技
法で、漆を用います。まず
粘土で型を作り、石膏をか
けてから中の粘土を全部出
し、石膏の型の内側に漆と
麻布を交互に貼って、最後
に石膏を取り除いて出来上
がります」
―― 和泉短期大学で教鞭を
執ったきっかけは?
「偶然、大学院の後輩が
『こういう公募が出ている
がどうだろう』と教えてく
れて、採用の条件は教員免
許かあることとクリスチャ
ンであることだった。条件
にぴったり合うのが僕だっ
たので、受けたら、講師と
して採用されたのです」
―― クリスチャンになった
のはいつですか?
  歳でクリスチャンに
「1987年、 歳の時だっ
たと思います。大学院生の
頃で、近くに電通勤めの牧
師さんがいて、その方が絵
画とか焼き物とかの美術品
をいろいろ持っており、作
品に興味があって家によく
遊びに行くうち、聖書の話
を聞いて共感し、クリスチャ
ンになった。難病を患って
苦しんだ経験も後押しした
かも知れません」
―― 短大では何を教えてい
30 30
たのですか?
「造形です。園児に教える
ための粘土とか絵具を使っ
た絵画などです。学長になっ
ても週1コマ『造形表現』
の授業を持っています。学
生から離れちゃうといけな
いので」
―― 和泉短大は 児童福祉学
科のみの単科短大ですが、
履修は2年間ですか?
「2年で保育士や幼稚園教
諭の資格が取れます。卒業
生のほとんどは保育所や幼
稚園の仕事に就きます。そ
の後さらに1年専攻科で勉
強すれば、介護福祉士の国
家試験受験資格も取れます」
―― 学生は女子だけですか?
「2001年から共学とな
り、わずかですが男子もい
ます。募集定員は1学年2
50人ですが、最近はなか
なか集まらなくなりました。
保育、介護現場での低賃金
が原因です」
―― 今後の抱負・目標をお聞
かせください。
「僕たちが経験した良いも
のを次世代に伝えたい。子
どもや高齢者のサポートが
きちんと当たり前にできる
ような若者を育てたい。そ
んな人が増えれば日本はもっ
と住みやすくなると思いま
す」
―― ところで、両国高校での
思い出は?
 思い出 京都修学旅行
「2つあって、1つは修学
旅行で京都に行って、夜中
にクラス仲間と酒を買いに
外に出て、帰りに旅館の塀
を乗り越える時、瓦が音を
立てて先生に見つかり、朝
まで座らされたこと。もう
1つは両高祭で大きな看板
を作ったことです」
―― 学校群の時代ですが、
両国に入って良かったです
か?
「今考えると運が良かった
と思います。プライドみた
いなものが育つので、卒業
後はそのプライドでやって
これたという思いです」
―― 印象に残る先生は?
「現代国語の草深(清)先
生。4年前、 回生が先生
の米寿を祝う会を開いた時、
『佐藤君、いつまでも学長
やってちやダメだよ』と言
われました。やりたいこと
をやりなさいよ、というこ
とだったのかなと思います」
―― 大学受験を前にしての
長期入院、無念でしたね。
「当時はそう感じました。
しかし、今この年になって
考えると、本当に好きなこ
とを探せたので良かったか
なと思います」
―― 両国高校・附属中学校
72
の後輩に一言お願いします。
「好きなことを見つけて欲
しいと思います。知識を積
み重ねるのもいいけど、自
分の好きなものを見つけ、
それで生きていけたら一番
楽しいと思います」
 ( 月4日、神奈川県相
模原市の和泉短期大学学長
室で)(宇田川)

   ◇   ◇   ◇ 
 さとう・もりお 
1957年1月、葛飾区生まれ
 歳。彫刻家。和泉短期大学学長
葛飾区立清和小、
立石中を経て
 年、両国高校入学
 年、両国高校卒業
 年、北海道教育大学卒業
 年、愛知県立芸術大学
 大学院美術研究科彫刻専攻を修了
 彫刻家の千野茂氏(東京芸術
 大学名誉教授)、堀川恭氏
(愛知県立芸術大学名誉教授)
 に師事。元国画会彫刻部会員
 年、第 回 中部国展新人賞
 年、第 回 国展新人賞
 年、第 回 国展新海賞
 年、第 回 昭和会展優秀賞
2007年、紺綬褒章。
1991年 より 和泉短期大学
 で教鞭を執り、
1996年、助教授(准教授)
2008年、教授就任
2014年4月、学長就任
 現在に至る。
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